将えにし ― 将棋の縁の相関図

自分の進退を賭けて、弟子を送り出した人——杉本昌隆と藤井聡太、師弟のえにし

2026-07-07

将棋の相関図を描いていると、ひときわ太く見える線があります。杉本昌隆八段と藤井聡太六冠——師匠と弟子を結ぶ、一本の線です。

今日はこの線の「はじまり」を、ゆっくりたどってみます。

東海研修会で出会った少年

二人の縁は、東海研修会で始まりました。まだ小学生だった藤井を、杉本は早くから見込んでいたといいます。

やがて少年は奨励会へ進みます。プロ棋士の卵たちがしのぎを削る世界です。このとき杉本は、知り合いに声をかけて弟子に実戦の場を整え、その伸びをそっと見守り続けました。手を引っ張って教え込むのではなく、伸びる場所をつくって、待つ。杉本の育て方は、そういう形だったようです。

「私は責任をとって引退しなければ」

藤井がまだ奨励会二段だったころのインタビューで、杉本はこう語っています。

彼がもし棋士になれなかったら、私は責任をとって引退しなければといった思い

(出典:Wikipedia「杉本昌隆」

穏やかな語り口で知られる師匠が、自分の進退を賭けるほどの覚悟で、一人の少年を送り出していた。この言葉を知ってから相関図の師弟線を見ると、線の太さが少し違って見えます。

そして藤井は、史上最年少でプロ入りを果たしました。

師匠・杉本昌隆の歩み

弟子の話ばかりが注目されますが、杉本自身の将棋人生も、なかなかに味わい深いのです。

愛知県名古屋市の出身。師匠は板谷進九段——東海将棋界の系譜を継ぐ棋士でした(この系譜の話は、それだけで一本の記事になるので、また改めて)。

杉本は奨励会時代、もともと居飛車党でした。ところが入会から2年間6級のまま。そこで自分の武器は体力だと気づき、振り飛車党に転じます。以来、振り飛車の指し手として知られ、同門の先輩にあたる小林健二九段とともに、振り飛車の定跡を整備した功績でも語られる棋士になりました。

自分の壁にぶつかって、指し方を変えて、そこから自分の武器を育てた人。そういう師匠のもとで、藤井は育ちました。

弟子の活躍と、師匠の奮起

物語はここで終わりません。

弟子がプロ入りして将棋界を沸かせていたころ、師匠の杉本も八段に昇段し、50歳で順位戦B級2組に復帰しました。「弟子の活躍に恥じないように」と言葉にするのは簡単ですが、実際に自分の成績で応えてみせる師匠は、そう多くありません。

そして、師弟の対局が公式戦で実現する日が来ました。かつて自分の進退を賭けて送り出した少年と、プロ同士として同じ盤を挟む。師弟という縁の、ひとつの理想形がここにあるように思います。

縁は、一本の線では終わらない

杉本門下には、藤井のほかにも室田伊緒女流、中澤沙耶女流ら、複数の弟子がいます。そして杉本自身の師匠・板谷進の先には、板谷四郎九段、木村義雄十四世名人へと遡る長い系譜がある。

「中京棋界にタイトルを」——板谷四郎以来の宿願と語り継がれてきたその願いが、系譜の先の藤井によって果たされるまでの五代のものがたりは、次の記事で書きます。

将棋界の縁は、たどり始めると止まらなくなります。


参考資料

- Wikipedia「杉本昌隆」(板谷進門下/振り飛車党への転向/小林健二とともに振り飛車定跡を整備/八段昇段・50歳でB級2組復帰/引退の覚悟を語ったインタビュー)
- Wikipedia「藤井聡太」(東海研修会での出会い/奨励会/史上最年少プロ入り)

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