将えにし ― 将棋の縁の相関図

「中京棋界にタイトルを」——ある宿願が五代かけて叶うまで

2026-07-07

相関図には、ちょっと変わった楽しみ方があります。師弟の線を、ひたすら上へ上へと遡っていくのです。

たとえば藤井聡太六冠から始めてみます。師匠は杉本昌隆八段。その師匠は板谷進九段。その師匠は板谷四郎九段。その師匠は木村義雄十四世名人。そしてその師匠は——関根金次郎十三世名人。

五本の線を遡っただけで、明治の将棋界に着いてしまいました。今日はこの五代の系譜を、一代ずつ下りながらたどってみます。

一代目:関根金次郎——「近代将棋の父」

関根は、明治から昭和初期に活躍した十三世名人です。日本将棋連盟の創設時(当時は東京将棋連盟)に参加した棋士20人のうちの一人。それまで世襲だった名人位を自ら退き、実力で争う「実力名人制」への道を開いたことでも知られ、「近代将棋の父」とも称されます。

いま私たちが当たり前のように観ているタイトル戦の原型は、この人から始まりました。

二代目:木村義雄——浅草で見出された「常勝将軍」

その関根が、浅草の将棋会所で指していた少年を見込んで門下に迎えます。のちの木村義雄——実力名人制になって初めての名人です。

師匠が世襲の名人制を終わらせ、弟子が実力制の最初の名人になる。この師弟の二代だけで、将棋の歴史が一度大きく折り返しています。木村はその強さから「常勝将軍」と呼ばれ、一時代を築きました。

三代目:板谷四郎——名古屋に火を灯した人

木村の門下から、板谷四郎という棋士が育ちます。三重県伊勢市の出身。順位戦の最高クラスであるA級に在籍し、全八段戦で優勝した実力者です。

板谷四郎の物語が特別なのは、その後半です。1959年に現役を引退すると、名古屋市に将棋道場を開き、東海の将棋界を育てることに力を注ぎました。以来、「中京棋界にタイトルを」——中京圏からタイトルホルダーを出すことが、板谷四郎以来の宿願として語り継がれていきます。

門下からは石田和雄九段、中田章道七段ら、のちに多くの弟子を育てる棋士たちが巣立ちました。そして次男もまた、父の門下で棋士になります。

四代目:板谷進——「東海の若大将」

板谷四郎の次男・板谷進は、父の門下で棋士となり、東海を拠点に活躍して「東海の若大将」と呼ばれました。

その門下に、名古屋の少年が入門します。のちの杉本昌隆です。

板谷進は若くして急逝します。このとき、まだプロ入り前だった杉本を預かって一門を支えたのが、兄弟子にあたる小林健二九段でした。系譜の火は、こうして兄弟子の手で守られました。小林九段が「藤井の事実上の大師匠」として紹介されることがあるのは、この経緯によります。

五代目:杉本昌隆——そして、宿願が叶う

杉本は師の系譜を継いで東海を拠点に活動し、振り飛車党の実力者として、また多くの弟子を育てる師匠として歩んできました。

その杉本が、東海研修会で出会った小学生を弟子に迎えます。藤井聡太です。

少年は史上最年少でプロ入りし、やがてタイトルを獲得します。板谷四郎が名古屋に道場を開いてから、60年余り。「中京棋界にタイトルを」の宿願は、系譜の五代目の弟子によって、ついに果たされました。

線を遡ると、物語が立ち上がる

関根が実力名人制への道を開き、木村が最初の実力制名人になり、板谷四郎が名古屋に火を灯し、板谷進がそれを守り、杉本が受け継いで、藤井が宿願を果たす。

一人ひとりの棋士の活躍としてニュースで見ていた出来事が、系譜として並べ直すと、百年がかりの一本の物語になります。相関図の線には、そういう時間が流れています。


参考資料

- Wikipedia「関根金次郎」(十三世名人/連盟創設時参加棋士20人の一人/「近代将棋の父」)
- Wikipedia「木村義雄 (棋士)」)(浅草の将棋会所で関根に見込まれ門下に/初の実力制名人・「常勝将軍」)
- Wikipedia「板谷四郎」(木村義雄十四世名人門下/A級在籍・全八段戦優勝/名古屋市に将棋道場開設/「中京棋界にタイトルを」)
- Wikipedia「板谷進」(「東海の若大将」)
- Wikipedia「小林健二 (将棋棋士)」)(板谷進の急逝後、プロ入りまで杉本を預かった/「事実上の大師匠」)
- Wikipedia「杉本昌隆」(板谷進九段門下)

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